昭和43年7月15日  朝の御理解

  御理解第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」

  これ段々信心が進んでまいりますと、身しのぎ、自分で直接神様にお伺いをさしてもらうようなことも出来るようになる、それにはとりわけ平気な心、平気と言うのは平静心、でなければならぬ、落ち着いて静かにその事を願うたらいいのである、いわゆる、神様へ通うということね、神様と通うためには、どうでも自分の心が平静心でなからなければならぬ、自分の心が、ね、落ち着いておらなければならぬ、ね、心が乱れておる、心が、え~、波打っておると、心が不安である、尚早しておるというようなことでは、だからこのことから頂いても、神様へ交流することが出来ない、交流というのは通うということ、だから相手は神様ですから、どんなにこちらが乱れた心で申し上げても、向こうには通じよるかもしれんけれども、こちらの方へ通うてきませんよね、交流しません、例えば神様がご返事を下さりよってもそのご返事がこちらへ聞こえてきませんよね、ですからこれは「お伺いをする時には」とこう言うておられますけれども、だからその神様と通う、交流する、そこから、あ~、私共の願いが聞き届けられ、また神様の願いも私共が分かることになってくる、ね。
  「右に行ったが良いぞ」と神様が言うておられても、その右に行って(?)が聞こえなかったら、左の方へでも行ったんじゃおかげにならんのですからね、そこで「心は神信心の定規じゃによって」というところ、自分の心は神信心をさして頂くものの定規なのだ、ね、自分の心の状態を見れば、自分のいわゆる神信心の、お~程度が分かる、例えば神を信ずるということでも、ね、自分がどの程度に信じておるかということが分かる、また自分の心の中に、まあ言うなら、あぁここで皆さんが、御理解を頂かれる、こういうような状態、こういう心では、こういう生い方ではおかげは受けられんぞと、いうことを頂かれる、ね、えぇ、例えば、どんなに清らかな心を持っておる例えば人でも、その人が、不安であったり心配をしておったんではおかげは受けられない、ね、だから「心配する心で信心せよ」とおっしゃる、心配する心で神様へ打ち向こうて行く時に、何とはなしに心が平静心になる、治まって行く、ね、だからおかげを受けられるのである、ね、言うなら根性の悪い心、ね、浅ましい心、ね、迷うたり、疑うたり、嫉んだり、妬んだり、憎んだり、そういうような心はね、神様を絶縁状態にするような心であると、例えば分からして頂いたら、そういう心の元であるものを絶たしてもらい、なるほど自分の心がいつも、いわるゆ、和らいでおる心、喜びを持っておれる心、ね、おかげは和賀心、和らぎ賀ぶ心、いわゆる平静心をいつも頂けておる、と言うてその自分の平静心そのものが、いかにも平静を、心のようであるけれども、さあ事何かある時には、平静を装うておるだけで、心はもう乱れておる、それではいけない、ね、只今御祈念がすんだ途端に電気が、今停電になった、真っ暗になった、その時私は思う、はあおかげを頂いてから、御祈念中でなくて御祈念が終わってから、おかげを頂いて有り難いとこうお礼を申し上げた、申し上げると同時に、人間というものはね、お礼を申し上げるその時にはもう願いというものがある、なか、なからなければ嘘である、只今から御理解を頂かなければならん、停電しておりましては、マイクも通じない、皆さんがそこで筆記をしておられるそれも出来ない、ですからこれでは、せっかく御祈念は有り難くすみました、これからその有り難いの半分であるところの御祈念、そして御理解を頂くということもどうぞ差し支えございませんように、まあ願わしてもらう、ね、そういうことにでも願えれるということが有り難い、だから、ね、まずその、「あらここの電気が消えた、困ったな」と言うだけではいけないことが分かるですね、ね、今まで明るかったということのお礼を先に言う心がなからなければいけない、平静心を欠いでおったり、自分勝手なことばっかり考えておるとです、今までね、電気がついておった、おかげで御祈念の間は、ね、御神灯も明々と頂くことができた、ですから、ね、そのことのお礼を申し上げる、「あら困ったなこれは電気が消えた」と、と言うだけではおかげは受けられん、ね、そこにお礼はお礼、まずお礼を申し上げる心が大事である、そして先に願うことを願わなければならない、ね。
  病気をしておるというてもそうですよね、頭が痛い、われるごとある、さあ神様助けて下さい、という前にね、われるごと痛かった前の事を思わにゃいけん、ね、そしてその時にお礼不足、本当に元気であれば当たり前のように思うておることが、やはりまず詫びられなきゃならん、また、例えば、頭が痛いと言うても、腹が痛いわけでもなからなければ、足が痛いわけでもない、他の所は全部無事であり、他の所はおかげを受けておることをやはりお礼を申し上げなければならん、そして後に、静かに、言わば平静心を持って、ね、願わしてもらうという、そういう私は、その、意味合いにおいてですね、平気でなければならん、平静心でなからなければならないということを感じますね。
  「心は神信心の定規じゃによって」と、「お伺いをする時には、とりわけ平気でなければならぬ、落ち着いて静かに願え。」と、昨日、お~一昨日から、以前ここで修行さして頂きました、皆さんもご承知でしょうけれども、古賀ユキジ先生がきておりました、現在病院生活を、親教会である飯塚の教会に帰りました、そして間もなく病気になって、まあ現在入院中です、まあお許しを頂いてから昨日お礼に出てきたんです一昨日、で昨日一晩泊まって、まあ一日、まあ合楽の、自分が椛目時代に修行さして頂いておった時代から、それから合楽に移っての合楽の信心の進歩と言うか、変わり方というのにもう驚いてしまってね、もう見おる目を見張るばかりもう、ね、まあ顔ぶれは昔の方が多いのですけれども、一人どの人の話しを聞いておっても態度を見ておってもですね、もう長く合わなかったり、見なかったりしておったら見ると、もう驚くばかりに変っておられる、目にひきかえて自分の心が、進んでいないのに、それこそ愕然とするほど感じた、そういうような気持ちで一昨日の、いわゆる昨日の晩、夜の御祈念を頂き夜の御理解を頂いてここに感ずるところがあって、明日親先生が三時半に出られるなら自分も御広前へ三時半に出らして頂こうと思うておったらおかげで丁度三時半に間に合うように目覚しのおかげを頂いた、ですからもう目覚しのおかげを頂いたということが有り難かった、「おかげを頂いて有り難うございます、どうぞ今日も一日こちらでおかげを頂きますから、どうぞ一日修行をさして頂きますようにお願いをさして頂いたら、だいたいこの人は非常に理屈の多い人で、まあ言うならば理知的な人です、あ~、情に欠けた、言えば欠けた人です、ですから、どんなに有り難い話しを聞きよっても、涙を流すということがない、私はある、え~、こう一緒にテレビを見よった、大変様々なそれこそ小説の主人公のようなその、悲劇の主人公のようなところをあの人達親子は通っておって、え~、お父さんとは生き別れになっておったりしてですね、色々なその、もうそれと、例えば古賀先生が話しを聞いた後でしたから、もう古賀先生のその事と同じような、そのテーマのドラマがあっておったんですよ、もう私はそれを、はぁこの人がもう本当にそれこそ自分の身にひっきょしてから涙がぼろぼろ流れよるとです、ところがですね、古賀先生はもう平気なんですよ、してから周囲で人が涙を流しよるとが不思議でたまらんっちいうごたる顔しておるですよ、で私は進んでからそれこそ怒ったんです、「もうあんたごたる奴はおらんばい」っち私は、「誰でんあんたの事を思うてから涙流しよるとよ」っち、「そうですかテレビどん見て涙流す者の気持ちが分からん」っち言うごたるような人なんです、ね、もう結局頭でわりきるといったような感じの人です、ところがね、昨日の朝三時半に目が覚めたということ、そして今日も一日、ここで御用するわけじゃないけれども、修行、今あの速記を勉強しておるそうです、病院で暇ですから、それでここで、その一日二日間の間の御理解を、速記して昨日一日ここでおかげ頂いておりましたがです、「どうぞ一日修行さして頂くことをお願いさして頂いたらね、不思議にそれこそどこから湧いてくるか分からん涙が零れた」と言ってます、私あの平静心を頂く第一の私は条件はですね、神信心、信心する者はね、いわゆる「心が信心の定規じゃ」とこうおっしゃるが、その心の定規を正確にするためには、まず何と言うても修行の心が湧いてこなければね駄目だと思う、ね。
  っとにあ、昨日の朝も私が申し上げましたよね、いわゆる、その、お役に立ちたいというような心、ね、お役に立ちたい立ちたい、もうここには自分中心じゃないわけですね、ね、人のお役に立ちたい、世界の御用に立ちたい、神様に喜んで頂くような私になりたい、と、お役に立ちたい立ちたいという願いが、神様の心を私は動かすと思う、それは真心だからなんです、ね、自分を抜きにして、ね、お役に立ちたい立ちたいという心が真心です、ね、ところが昨日の話しを引用すると、私がお役に立ちたい立ちたいという願いは切であったけれども、それには私という不純なものが入っておった、「一年間私が一生懸命あなたのために働きますから、後はずっと私のために働いて下さいよ」といったようなものがあった、ね、昨日その話しをいたしましたですね、条件があった、ね、それが言わば不純なものである、ね、そういう、私は高度な、まあ言うなら信心になってくるわけですね、「儲けさして下さい、その代わりにお供えをがばっとしますから」と、(笑)、神様はそういうようなものを求めなさるはずがない、お供えをいかにしたところで、神様が例えばお酒を飲みなさるわけじゃなし、果物食べなさるわけでもない、ね、いかにお金をお供えしたところで、神様がそれを使いなさるわけでもない、ね、ですからいくらお供えするっち言うたっちゃ神様はお供えするといったようなことで動きなさる神様じゃない、ね、問題は氏子のそういう純な心とでも言うかね、まごっ、いわゆる真心である、その真心で動きなさる、しかもその真心でです、お役に立ちたい立ちたいという、いわゆる神様の願いであるところのですね、世界真の平和とか、世界総氏子の助かりとか、これが神の第一の願いとするなら、そういうような平和のために、人の難儀が助かることのために、ね、奉仕する心、貢献する心、そうありたい、そう願っておる、ね、それを求め給うのである、ね、神の願いであるから、その願いの、うんなら御用、お手伝いを、奉仕をさして頂こうというのである、ね。
  この辺のところがですね、自我の心があっては、そう頂きません、ところが自我の心のない者はございますまいけれど、昨日は、福岡からお参りをしてみえた、お母さんが熱心にお参りされる、どうでもその息子さん達の信心をもう日々願え続けておられる、ところがいわゆる最高学を出られ、もう勉強されただけではなくてその人は非情に頭が良い、ですからその、それでもやはり様々な難儀にぶつかるとですね、非常に真剣に悩まれる、で真剣にそこから助かろうとするその願いを、が感じられる、だから信心を説かれるけれども、お母さんの言う事が分からない、昨日私丁度散髪さしてもらうとに、裏へ下がっておりましたから、幸い私の部屋に、通って頂いて、まあゆっくりお話を聞かしてもらいましたが、あんまり素晴らしいお話ですから私に分からんとです、通訳がいるとです、幸い、あの、久保山の茂さんがきておりましたし、え~、お母さんの、、「えっと今言いよりなさるとはどういう意味ですか」と言うて私が、意味を聞かなければ分からないような感じ、私の言う事はどこまでも泥臭い表現であって、なかなか、その中にこういう事を言うておられるですね、もう非常にその宗教書ももうあさりにあさっておられるという感じです、ね、哲学もある意味で収めておられる、ですから言われる事が哲学的であり、非常に高度な宗教的です、高度な信心を知っとかなきゃああいうことは言えない、こういう事を言われましたよ、ね、「例えば私は良く腹を立てます、だからね徹底して腹を立てたい」ね「例えば善と悪があるならね、悪でも徹底したらね、その向こうに助かりがある」っち言うわけ、だから私がしかりと言うたんです、お母さんは「そげなん事があるものか、善を、善をなさなければ助からん」って言うか言われるわけ、ところが私聞いとって、私も確かにそう思うたんです、そうなんだ、ね、それを不動という言葉と福神という言葉で使われる、不動というのはあの不動様のね、それこそ、お~、怒りの形相に燃えておられるのが不動様の姿ですね、後ろには火が燃えておる、目をこう向いて牙を出してね、そして縄を持ったり、金斧剣を持ったりしておられる不動様の形相、ねだから不動の心でも助かられると、そうなんですよ、ね、と言うてなら、いつもニコニコとしておる福の神様のような、ね、けれどもそのそのどちらにおいてもそれをやはり徹っしきらなかったら駄目なんだ、と言うて教祖の、そのいわゆる生きられ方、教祖の神様へ向かわれた態度というのを私は話しをさしてもらった、ね、大変手厚い信心をなさっておられる、勿論俗信仰ですけれどもなさっておられるにもかかわらず、次々と難儀な事が起ってくる、七墓築くような事が起ってくる、ね、当時今でもそうですけれども、いわゆるあの金神有効という説が非常に、え~、はばをきかせておった時代、家を建てるにも結婚するのにも、女の方が着物をたったりぬうたりするのにも、日柄を見らなければ、種を蒔くにも、やはり日柄を見らなければと言ったような窮屈な状態、そこに金神様というのが非常に大きくクローズアップされたんですねその時代、今でもそうですね、あの人は知識人だ文化人だと言われるような人でも、さあ自分方の家を建てると言やあ、家相を見てもらう、さあ息子が結婚すると言やあ、高度吉日を選ぶと、理屈は同じなんだ、今でも迷信から一歩も出ていない、それが日本の現状なんだ、それが日本の言うなら文化なんだ、その程度の事、それを百年前に教祖はですね、その迷信を打破しておられる、そこでその金神さんに向かってですね、一心にまあ打ち向こうていかれた、「知って向かえば命を取り、知らずに向こうても目を取るというほどしのあらたかな権を持っておられる神様」ね、いわゆる金神に悩まされ続けてきた皆が、ですからそういう、ね、目を与えたり、または命を取ったりされるほどしの神様ならば、ない命でも助けて下さる力を持ってござるに違いはない、人の目でも、やはりつぶれた目でも開けて下さるほどの力を下さるに違いはない、いや持ってござるに、ではないというところに、私教祖の信心のまあ、着眼が素晴らしかったと思うですね、皆はだからそれをおののいて、金神封じといったようなことをしてその金神からさけたわけです、その金神に向かって実意の限りを尽くされた、いわゆる真の限りを尽くされた、ね、そして次々難儀な事が起ってまいりますのは、私共、しんっ、人間凡夫のことでございますから、どこにお粗末御無礼があるやらわからない、ね、そのお粗末がお粗末、御無礼が御無礼として、平に平にお詫びをさしてもらう、そうして本当のあなたの心にかなう生き方があるならばその生き方を持って進ませて頂きますから、どうぞ金神様、あなたのこういう悪い面だけではなくて、あなたのその助けて下さる面、いわゆる「お向きを変えて下されお向きを変えて下され」と言うて実意の限りを尽くして進まれたにも関わらず難儀は続いた、それでもやはり向かわれた、ね、そして、教祖の真実が、真が、その悪神邪神というように恐れおののかれるような神様を、いわゆる向きをかえさしてしまわれた、向きを変えてしまえたところに天地金乃神という、いわゆる御神号までも変った、いわゆる(じがん?)溢れるばかりの、いわゆる助けずにはおかんやまんという神様であることを発見された、しかもその神様から、「お前のような実意な氏子はまたと見た事がなかった」と、「世の中には難儀な氏子が沢山あるから、お前の信心のよって取り次ぎ助けてやってくれ」という神の頼みまでが発しられるようになってきた、ですからね、金光様の御信心はその福神と、いうなら邪神とでも言おうかその不動様とその福神とが一緒にある、ある、そこにあの、自己を肯定しないでの生き方、または否定もないという信心が生まれてたんですよと、そういうことがですねもう良~う分かられるんですよ、私とにかく学問ということも素晴らしいと思うたですね、そして言われることですね、さっきから申します、自我心、「人間というものはね、自我の心というものを無くしたらね、もう人間失格だ」とこう言われるわけです、私はそれを聞いた時に「そうだ」と、「信心とはねその人間失格することなんだ」と、私が言ったらね、もうそればもう腕ば響くように分かられるんですね、「もう今日来たのはその事のためだった」と言わんばかりにですね、もう私はこれから信心するかしないか分かりませんけれども、先生あなたとのね、これからあなたの、こやって接しておるだけに私、ちょっとその、非常に頭が良いためにですね、東京の本社のほうで、仕事が大変出けたんです、ところがあんまり仕事につめられたもんですから、ちょっと頭にきたんです、ノイローゼ的こに、その間に後輩のまた同輩がですね、その仕事をまるきり自分の仕事のようにしてからやったんです、それが頭にきてあったんですね、だからいわゆる腹が立つ、いわゆる、それこそ腹立ちの形相不動様になってです、不動様の向こうにある助かりを求め、願われたんです、もう腹かき続けられたわけです、そのためにとうとう、九州の方へ左遷になったんです、そしてむしろそのその方の、おる場がないようにこう仕向けられる、それからいよいよ腹が立ってきたわけですね、ね、そこでその自分の自我の心というものをね、人間が持っておるし、またこれを取ったら人間失格だと、そこで私はすかさずそれを思うたんです、また思うたからすかさず言うたんです、「それなんだ、信心とは人間失格なんだ」と、ね、もうそれこそ目を輝かしてですね、もう今まで聞いたことのない返事である言葉なのだ、ね、そして私は次ぎ、なお申しました、「私共はねもう完全に人間失格を願っておる、いわゆる神様の前に無条件降伏なのだ、なるほどそこには人間性がないかものように思われるかもしれんけれどもね、そこから我が心が神に向こうて行くという生き方がなされるのだ、ね、いわゆる神の前に無条件降伏なのだ、ね、いわゆる自分の自我というものを捨ててしまったんだ、ね、そして例えばあなたが言うその腹立ちでも、なるほど、例えば子供が腹を立てておる事にあなたは腹を立てられないでしょうが、ですから同じ腹立ちでもね、同じ腹立ち、同僚からこうなったああ言われたといったようなことだけに、言わば腹を立てずにね、こちらが高度になればそげな事なら全然問題じゃなくなってくる、私も腹を立てる、けれども自分で時々思うことがある、それは、これは大坪総一郎の腹立ちではない、神様の腹立ちだなと思うような、素晴らしい高度な腹立ちが、あっ出来る、ようになってきた、ね、人間が腹かくような事には腹かかんですむごとなってきた、ね、それこそお不動様じゃないけれども、いわゆる不動の怒りにも似たような怒りを発することがあるけれども、それは神様の怒りであり、神様の腹立ちだと、自分でも思われるような、高度なものになってきた」その、そういうことがね、分かられるんですよ、ね、第一その人間失格、信心とは人間失格だと、ね、だからある意味合いにおいて、難儀な氏子、言わばもう私の力ではどうにも手が打てません、私ではどうにも出来ませんと、言うて、言わば行き詰まった人こそが、助かられる、もう、信心によって助かられる、一番条件を持った人なんだ、条件が揃うた時にはそげんなった、「まぁだ私が出来る、まぁだ私にはこれも出来る」と言う間はほんなこっちゃない、そこでここでは、まあそういう稽古の手始めが、神様任せであり、いわゆる親先生任せということ、自分なみきという自我の心があるけれども、ね、親先生は左とおっしゃるから、その自分の自我の心を捨てきって、いわゆる神様任せになる、ね、だからそういうその、例えば神様任せになるという心でもです、ね、ただ神様が、親先生が「右向け」とおっしゃったから右へ向くというのではなくてです、ね、朝の三時半に、ね、起こされたから、ではなくて、その朝の三時半から今日一日をです、本気で修行させて頂こうという心に、古賀先生じゃないけれども、かつて湧いた事のない感動と言うかね、何か知らんどっから湧いてくるか分からん、涙が流れるほどに感動した、そして朝の四時の御祈念の雰囲気を拝ましてもらっておる間に、いよいよ昔の信心がよみがえってきた、言わば、椛目で信心の稽古をしておった時代の感激が新たに湧いてきた、「なるほどこういう感激で皆は信心の稽古をしておられるから、もう手が届かんぐらいに皆の信心が進むはずだ」と、皆さんは何でもないけどもね、一年ぶり二年ぶりに合うたものが皆さんに合ったらもうびっくりするぐらいに変ってるんですよ、ね、まあ言うならば自我の心が段々無くなっていって、ね、もう神様の前に、従順に素直に、しかも忠実になって行きよるわけなんです、ね、ですから、え~、「自分の心は神信心の定規じゃ」ということがです、そういうような神様のお心に沿うような生き方、ね、清まった上にも清まって、清まろうと願う心、その清まった心からは、有り難い事が思われる、言うならば、お役に立ちたい立ちたいというような念願が湧いてくる、ね、初めの間はそのお役に立ちたいという中にも不純なものがあった、ね、神様のみ教えの中にも、ね、四神様のみ教えの中にも、ね、氏子が神の用をたせば、氏子の用は神がたしてやる」とおっしゃるから、神様の喜んで頂くような御用を一生懸命しおりゃぁ自分の方は神様が見て下さる、といったような安易な考え方、ね、条件のついたような考え方、ね、それが段々不純なものが無くなってです、ただ一途に自分というものがです、お役に立つならば、お役に使うて頂きたい、こんな汚い心ではしかし、使うても頂くまいから、本気で清まろう、これはそうですよね、「お役に立ちたい立ちたい」と言うて、ね、なら、これはまあ、これは親先生といたしましょうか、親先生の側にいつもおって、ね、御飯のお給仕もさしてもらいたい、着物を着る時には着物の御用奉仕もさして頂きたい、ね、足が痛いと言えば足の、あんまもさして頂きたい、どうぞお役に立ちたいお役に立ちたいと、親先生に喜んで頂きたいとまあ思うといたしましょうか、ところがこの人がもう汚れたくってござる、ね、そういう人に私は頼むはずはないでしょう、いくらお役に立ちたい立ちたいと言うても、そんなこうこうすけなごったとで、「さあ御飯ばまあ一杯あがって下さい」っち言うてお給仕されだしたところでですね、もうそれこそ今まで食べようと思いよった食欲でんなくなってきますよ、だから「んまぁ良かですもう良かです」っち言うてから、遠慮せにゃんごとなってくる、ね、「うんならもう親先生足が痛うなさるならあんまさして頂きましょう」と言うてから、もう私が「ここが痛か」っち言うとこを押さんならもうね、あられんとこばっかり押すならば「もう良かですよ」っち私が遠慮しますよ、ね、私お役に立ちたいと言うのはね、本当に足が痛うあんなさるなら、あんまの一つ稽古も一つさせて頂いてから、お役に立ちたいと願わにゃいかんと思う、御飯のお給仕もさして頂きたいと思うなら、まずね、きちっとしたみなりをさしてもろうて、顔ども洗うて、手でも洗うて、そしてどうぞと言うて、お給仕でもさして頂こうという気にならなければ、そのお給仕の御用にだって神様も使いなさらんと思う、そうでしょうが、お役に立ちたい立ちたいというても汚い心、ね、浅ましい心を持っておる者を神様は使いなさるはずがない、そこでまず清まらなければ、まず素直にならなければ、ね、限りなくいよいよ美しゅうならして頂かなければというような、心を、言わば発心するのだ、そういう心を起こすのだ。
  今私御理解にかからして頂く前に頂いたのが只今この九十八節であった、そして久保山先生のここに書き残しておられる、あのこれを開いたら「一言一行実意を持って」というところを頂いた、一言、一行、これは昔頂いた御理解です、一つの事を言う、一つの事を行なう、だからこの事だけには実意を込めよ、この事だけには真心を込めてと、いうのである、ね、そこに私は神様を動かすといったような働きがある、ね、そういう生き方の中にです、例えば昨日一日古賀先生の心の中には喜びと平静心がいっぱいであったように、ね、まず、本気で一つ修行をさして頂こうというような心、同時にお役に立ちたい、ね、お役に立ちたいと言うても、只今申しましたようなところから、同時に一つ本気で自我を無くしていく、ね、良い言葉ではないけども人間失格を目指すのだ、いかにもそれは無気力な、もうそれこそ、お~、人間が自我の心を取ったらもうそれこそ馬鹿になってしまうだろう、そうなんだ馬鹿になるのだ、しかも信心によって、馬鹿になる、ね、だから言うならば、偉大なる馬鹿なのだ、お互いその偉大なる馬鹿を目指さなければいけない、ね、神様の前に無条件、そこからです今までかつて味合ったことのない、ね、いわゆる信心さして頂く者に与えられる、いわゆる妙賀、賀びの妙、どっから湧いてくるから分からない、喜びが湧いてくる、ね、神様の前にまず無条件に、手を上げさして頂くところから、本当の信心が分かってくる、またおかげを頂けてくるんだと私は思う、ね、そこにあるのが平静心、もう神様にお任せしきった私なのだ、ね、良し目の前が真っ暗なってもです、自分の心の中に光りがともっておる、不自由しない、驚かんですむ、ね、そういう心の定規というものをです、私共がいつも心に押し当て押し当てさして頂いて、いよいよそういう平静心ね、「平気でなければ」とおっしゃる、その平気な心を頂いていこうと努力する、そこに私は、何と申しますかね、神様が本当に「信心しておかげを受けてくれよ」とおっしゃるようなおかげが、おかげの世界がそこにあるわけなんです、ね。
  これはとりわけ、皆さんが信心を進めておいでられて神様に直接お伺い出来ようにも段々なられると思う、そういう時には絶対心が乱れておってはね、おかげにならん、神様と通わない、交流しない、ね、平気な心、平静心、その平静心を目指してですね、お互いが信心さしてもらう、その平静心を頂くためには、ちく私が申しましたような内容を持って生まれてくるところの平静心でなからなければならない、いかにも平静をよそうておる、平静心のようであるけれども、事という時にはもう乱れておるならば、それはあんたのほんなもんじゃないということを分からしてもらわにゃならん、それに一番おかげ頂けれるのは、まず自我の心を、自分から取り除かしてもらう修行、ね、そういう修行の心が大事です。                                                            どうぞ。